柿崎景家 (かきざき かげいえ)
上杉家家臣。
柿崎城(かきざきじょう)、猿毛城(さるげじょう)城主。
七手組大将(ななてぐみたいしょう)の一人。
上杉謙信の下で、先手組(さきてぐみ)300騎の大将として重用(ちょうよう、人を重く用いること)される。
勇将揃いの上杉軍の中において、屈指の戦上手(いくさじょうず)であり、上杉軍の戦いでは常に先鋒を務めたとのこと。
その名を聞いただけで、敵は逃げ出したとされています。
甲越勇将伝上杉家廿四将(こうえつゆうしょうでんうえすぎけにじゅうよんしょう) 柿崎和泉守(いずみのかみ)景家 (歌川国芳(うたがわくによし) 作画)
第4回川中島(かわなかじま)の戦いにおいて、上杉謙信は、猛将と名高い柿崎景家を先鋒に、車懸り(くるまがかり)の陣(車輪のスポークのように部隊を配置し、入れ替わり立ち替わり次々攻撃する陣形。いわゆる波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。
武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼(かくよく)の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの支えきれずに、陣形は崩壊。
武田信玄の弟の武田信繁(たけだのぶしげ)や山本勘助(やまもとかんすけ)、諸角虎定(もろずみとらみつ)、初鹿野忠次(はじかのただつぐ)らの名だたる武将が討死にしました。
人物の逸話として、「上杉将士書上」に、上杉謙信は柿崎景家のことを「和泉守(景家)に分別(ふんべつ)あらば、越後七郡に、合ふ者はあるまじき」と評したとされています。
意味は、この越後七郡に、和泉守ほど分別のあるものがあろうか(いや、そのような人物はいない)と、景家を賞賛した言葉となっています。