北条綱成 (ほうじょう つなしげ・つななり)
北条家家臣。
綱成は、若い頃から武勇に秀でており、毎月15日は必ず身を清めて八幡大菩薩に戦勝を祈願したといわれています。
北条家の主力部隊である五色備えのうち、黄備え隊を率いていました。
合戦では、朽葉色に染めた6尺9寸(約2メートル)の練り絹に「八幡」と書かれた旗を指物(さしもの)としていたので、その旗色から「地黄八幡(じきはちまん)」と称えられた。
※指物(さしもの)
戦場において武士が目印のため、鎧の背などにさしたり、従者に持たせたりした小旗や飾り物。背旗のこと。
北条軍の先鋒としてその無類の強さを見せつけたため、近隣において常勝軍団としてその名がとどろきました。
その武勇には上杉軍や武田軍も恐れ、深沢城の戦いでは圧倒的な兵力差であるにもかかわらず、武田軍は綱成に苦戦したとされています。
河越夜戦(かわごえよいくさ) 天文15年(1546年)
河越夜戦(かわごえよいくさ)は、日本三大奇襲(日本三大夜戦)のひとつとしてあげられています。
関東管領の山内上杉家(上杉憲政)、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝定(うえすぎともさだ)、古河公方(こがくぼう)の足利晴氏、その他関東諸大名連合軍は、約80,000の大軍をもって北条家の河越城を包囲します。
河越城は北条綱成が約3,000の兵力で守備。
籠城した綱成は半年もの長きにわたり耐え抜き、戦況は数ヵ月もの間、膠着(こうちゃく)状態であった。
天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、北条家の当主である北条氏康(ほうじょううじやす)は自軍8,000を四隊に分けます。
そして氏康自身は三隊を率いて敵陣へ向かいます。
子の刻(23時から01時の2時間のこと。 または、00時ちょうどのこと)、北条氏康は兵士たちに鎧兜(よろいかぶと)を脱がせて身軽にさせ、山内・扇谷の両上杉勢の陣へ突入。
予期しない敵襲を受けた上杉勢は大混乱に陥ります。
扇谷上杉軍(おうぎがやつうえすぎぐん)では当主の上杉朝定(うえすぎともさだ)、難波田憲重(なんばだ のりしげ)が討死。
山内上杉方では上杉憲政はなんとか戦場を脱出し上州平井に敗走。重鎮の本間江州、倉賀野行政が退却戦で討死した。
氏康はなおも上杉勢を追い散らし敵陣深くに切り込みました。
城内で待機していた綱成は、この機を捉えて城を打って出ると、足利晴氏(あしかがはるうじ)の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入した。
浮き足立っていた足利勢は、綱成軍の猛攻の前に散々に討ち破られて、本拠地の古河へ遁走(とんそう、逃げだすこと)。
一連の戦闘による連合軍の死傷者は13,000人から16,000人と伝えられています。