本庄繁長 (ほんじょう しげなが)
上杉家家臣。
幼名は千代猪丸。
まだ幼少と言われる年齢だった千代猪丸は、「気性剛強で勇猛」と評された。
本庄繁長 歌川国芳(うたがわ くによし)作画
永禄(えいろく)元年(1558年)に上杉家の家臣となり、川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)や関東攻めなど、上杉謙信に従って各地を転戦、武功を挙げた。
永禄11年(1568年)、上杉謙信の命を受けて、長尾藤景(ながお ふじかげ)・景治兄弟を謀殺。
これに対しての恩賞がなかったことに不満を持った繁長は、甲斐国(かいのくに)の武田信玄の要請に応じて、上杉家からの独立を目論んだ。
尾浦(おうら)城主で大宝寺家の当主である大宝寺義増(だいほうじ よします)と結んで挙兵。
繁長の勇猛さに、さすがの上杉謙信も鎮圧に手間取った。
上杉謙信は、先に庄内へと兵を進めて大宝寺義増を降伏させ、孤立した繁長に猛攻を加えた。
翌年、繁長は蘆名盛氏(あしな もりうじ)の仲介により降伏。
嫡男の千代丸(のちの本庄顕長(ほんじょう あきなが))を人質(ひとじち)として差し出すことで帰参を許された(本庄繁長の乱)。
「東国太平記」に記載されている内容によると、慶長(けいちょう)6年(1601年)4月26日、2万ばかりの大軍を率いて、伊達政宗(だて まさむね)軍が侵攻。
劣勢だった上杉軍は、本庄繁長の奇策により、信夫山(しのぶやま)の後背から、須田長義(すだ ながよし)の軍勢と共に伊達軍を挟撃。
伊達軍は小荷駄隊(こにだたい、戦争のために必要な兵糧や弾薬、陣地設営道具などを運ぶための人夫・駄馬(もしくはウシ)、及びそれを率いる部隊のこと)を撃破され、「竹に雀の陣幕」まで奪われた伊達軍は大いに慌てふためいて浮き足立ちます。
更に、福島城城門から出撃した本庄繁長軍は、伊達軍の中央本陣深く切り込み、伊達軍は総崩れとなった。
この戦いで、上杉側は首級1,290余りを上げる大戦果を上げた。
この予想外の大敗北に、伊達政宗は僅か10騎ばかりの供回り(ともまわり)で白石城(しろいしじょう)へ逃げ帰った。
上杉景勝は繁長を特に優遇。
「竹に飛雀(たけにとびすずめ)」の紋所(もんどころ)と、上杉景信(うえすぎ かげのぶ)の名跡(みょうせき)を継ぐ事を許して、上杉一門(うえすぎ いちもん)として遇(ぐう)した。
繁長は「上杉家に鬼神あり」とまで言われた人物です。