本多忠勝 (ほんだ ただかつ)
本多忠勝 武将図 良玄寺(りょうげんじ)所蔵
良玄寺(りょうげんじ)は、千葉県夷隅郡大多喜町にある浄土宗の寺院です。
徳川家の家臣。
徳川四天王、徳川十六神将(とくがわ じゅうろく しんしょう)、徳川三傑(とくがわ さんけつ)に数えられています。
徳川家康の功臣として、現在においても表彰されている武将です。
15歳の時に、今川氏真(いまがわ うじざね)の武将の小原備前と戦った時において、叔父の本多忠真(ほんだ ただざね)は、倒した敵の武将の首を忠勝に与えて、武功を飾らせようとしました。
忠勝は「我何ぞ(なんぞ)人の力を借りて、以て(もって)武功を立てんや」と言って、自ら敵陣に駆け入り、敵の首を挙げました。
本多忠真(ほんだ ただざね)をはじめとする諸将は、忠勝を只者ではないと感じ入ったといわれています。
元亀(げんき)元年(1570年)の姉川の戦い(あねがわのたたかい)にも参加。
徳川家康の本陣に迫る朝倉軍1万に対して、無謀とも思える単騎駆けを敢行。
この時に、必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって、朝倉軍を討ち崩したそうです。
元亀(げんき)3年(1572年)、武田信玄と徳川家康の間で争った二俣城の戦い(ふたまたじょうのたたかい)。
その前哨戦たる一言坂(ひとことざか)の戦いにおいて、殿軍(でんぐん)を努めました。
※殿軍(でんぐん) 後退する部隊の中で、最後尾の箇所を担当する部隊のこと。
武田家の馬場信春(ばば のぶはる)の部隊を相手に奮戦し、徳川家康率いる本隊を逃がして、撤退戦を無事に完了。
この時に、忠勝は味方を退却させるために、敵と味方両軍の間に割って入り、蜻蛉切(とんぼきり)を頭上高く振り回して踏み止まりました。
さらに武田軍が追撃しようとするたびに数度馬首を返し、見事な進退で殿軍(でんぐん)を務めました。
※蜻蛉切(とんぼきり) 本多忠勝が愛用した事で知られる天下三名槍(てんが さんめいそう)と呼ばれた槍。
本多忠勝の武勇を称賛した川柳があります。
「蜻蛉(とんぼ)が出ると、蜘蛛(くも)の子散らすなり。手に蜻蛉(とんぼ)、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」。
武田軍の小杉左近(こすぎ さこん)は、一言坂(ひとことざか)の戦いでの殿軍(でんぐん)での戦いぶりを称賛しています。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という狂歌の落書があります。
※唐の頭 当時、徳川家中で流行していた兜などにつける牛の尾毛の飾り物のこと。
※本多平八 本多忠勝は、別名で本多平八郎と呼ばれていました。
本多忠勝像
天正(てんしょう)12年(1584年)4月、羽柴(豊臣)秀吉軍と織田信雄(おだ のぶかつ)・徳川家康軍の間で行われた戦いである小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い。
その戦いにおいて、豊臣方16万の大軍の前に、徳川軍は苦戦して崩れたかに見えました。
本多忠勝はわずか500名の兵を率いて小牧から駆けつけ、5町(約500メートル)先で豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらに龍泉寺川で単騎乗り入れて、悠々と馬の口を洗わせました。
この振舞いを見た豊臣軍は逆に進撃をためらい、戦機は去ったといわれています。
忠勝は豪胆な振舞いや活躍などにより、豊臣秀吉から「東国一の勇士」と賞賛されました。
生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられています。
忠勝の名采配ぶりを見た配下の将達は、「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称えています。
主君である徳川家康に対する生涯変わらぬ忠誠心の大きさを物語っている言葉があります。
豊臣秀吉と徳川家康が和睦した後、秀吉によって召しだされたときに、「秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとっては重いか」と質問されると、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えています。
遺書の一節において、「侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という」。
辞世の歌において、「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」と詠んでいます。