後藤基次 (ごとう もとつぐ)
黒田孝高(くろだ よしたか)、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)に家臣として仕える。
通称は後藤 又兵衛(ごとう またべえ)。
「黒田二十四騎」「黒田八虎(くろだはっこ)」「大坂城五人衆」の一人。
身長は六尺 (180cm) を超える。
大坂の陣の頃の体格は、肥満で巨漢だったと言われています。
後藤基次像 福岡市博物館 所蔵
文禄(ぶんろく)元年(1592年)の朝鮮出兵において、平壌城攻略戦での嘉山城攻めで一番槍をあげる。
白川城の迎撃戦において、黒田一成(くろだ かずしげ)とともに殊勲者となっている。
慶長(けいちょう)5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成の家臣である剛槍使いの大橋掃部(おおはし かもん)を一騎討ちで破るなどの武功を挙げる。
慶長(けいちょう)19年(1614年)、大坂の陣が勃発。
大野治長(おおの はるなが)の誘いを受けて、先駆けて大坂城に入城する。
旗頭(はたがしら)として、天満の浦での閲兵式の指揮を任された際に、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称された。
徳川家康は、名望家であった後藤基次のことを警戒していた。
大坂夏の陣の道明寺の戦い(どうみょうじのたたかい)において、迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いる。
後藤は小松山に布陣する。
この時点で、後藤基次は作戦が既に破綻していることを認めていた。
徳川方は、小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。
午前4時頃に、後藤勢は、松倉重政(まつくら しげまさ)、奥田忠次(おくだ ただつぐ)勢に対して攻撃を仕掛けた。
後藤隊は、奥田忠次を討ち取り、松倉勢も陣形が崩れるほどの猛攻を加える。
徳川方の伊達政宗や松平忠明(まつだいら ただあきら)勢は、小松山にとりつこうとした。
後藤勢は、次々に新手を繰り出す徳川方を数度にわたり撃退したが、それにも限界があった。
後藤勢は小松山を下り、10倍以上もの徳川方の兵力に対して、最後の突撃を敢行。
敵数隊を撃退するも、丹羽氏信(にわ うじのぶ)勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達勢の銃撃により、後藤が被弾。
正午頃、約8時間の戦闘の末に、後藤は乱戦の中で壮絶に討死。後藤隊も壊滅した。
余談
〇道明寺の戦いの数日前、後藤のもとに、家康からの使者として、旧知であった京都相国寺の僧である揚西堂が訪れた。
「播磨(はりま)で50万石」という法外な条件での帰順を持ちかけられた。
後藤は感激するも、これを拒絶したといわれています。