福留親政 (ふくどめ ちかまさ)
長宗我部家(ちょうそかべけ)の家臣。
感状(かんじょう)を受けた数は、21回にも及ぶ。
※感状(かんじょう)
軍事面において、特別な功労を果たした下位の者に、上位の者がそれを評価・賞賛するために発給した文書のこと。
その功により、長宗我部元親に「親」の一字を与えられるほど信頼されていました。
また、元親の嫡男である長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)の守役(もりやく)を務めるなど、重用(ちょうよう)されていた。
※守役(もりやく)
養育係、教育係のこと。戦国武将の大事な嫡男の守役は、家臣の中で最も信頼に足る者が選ばれていました。
1563年、長宗我部家は本山家(もとやまけ)に侵攻。
その隙を狙われて、安芸国虎(あき くにとら)は、長宗我部家の居城である岡豊城(おこうじょう)を攻撃した。
親政は、岡豊城の防衛のために獅子奮迅の働きをする。
「土佐物語」によると20人切り、「元親記」によると37人切りをしたと伝わっています。
その働きぶりは「福留の荒切り」と呼ばれた。
1577年、伊予の戦い(いよのたたかい)において、戦死した。
享年66歳。
高齢でも、なお意気軒昂だったことを偲(しの)ばせます。