江里口信常 (えりぐち のぶつね)
龍造寺家(りゅうぞうじけ)の家臣。
龍造寺四天王の一人。
龍造寺四天王とは、武勇に優れていた4人を賞賛した呼称のこと。
沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)
※畷(なわて)
水田と水田の境に、水田の中の泥土を盛って造った細道のこと。
天正(てんしょう)12年(1584年)3月、有馬晴信(ありま はるのぶ)が龍造寺家から離反。
これを機に、島原半島における龍造寺方の諸豪族が動揺し始めたため、龍造寺隆信は自ら大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦を決意します。
龍造寺軍は25,000(諸説あり)という大軍、島津軍はわずか5,000と圧倒的な兵力差であった。
しかし、地形や戦術を巧みに使用した島津家久(しまづ いえひさ)の前に、龍造寺軍は大敗北を喫(きっ)して、多くの将兵を失います。
不覚にも、龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)自身も、島津家の家臣である川上忠堅(かわかみ ただかた)に討ち取られてしまいました。
龍造寺の重臣たちは、主君である隆信の遺骸を放置したまま、かろうじて佐賀へ逃げ帰る有様だったとされています。
江里口信常は、龍造寺隆信の戦死の報を受けた。
皆が逃げ散るときに、単身で島津軍の味方と偽り、敵陣に乗り込んで、敵の総大将である島津家久の首を狙いました。
残念ながら、家久の左足を傷つけるだけに終わって、総大将の首を討つには至らず、その場でなぶり殺しにされました。
島津家久からは「無双の剛の者」と賞賛され、「信常の一族がいれば召抱えたい」とまで言わしめた人物です。