馬場信春 (ばば のぶはる)
武田家の家臣。
教来石景政(きょうらいし かげまさ) → 馬場信房(ばば のぶふさ) → 馬場信春(ばば のぶはる)と名前を変更する。
武田四天王の一人。
馬場美濃守信房(ばば みののかみ のぶふさ) 松本楓湖(まつもと ふうこ)作画 恵林寺(えりんじ)所蔵
武田晴信(たけだ はるのぶ)、のちの武田信玄(たけだ しんげん)の初陣(ういじん)である海ノ口城(うんのくちじょう または うみのくちじょう)攻めに参加。
敵将である平賀源心(ひらが げんしん)を討つという功績を挙げています。
武田信玄のもとで、数々の武功を上げる。
その功により、甲斐(かい)武田家の譜代の名門である馬場家を継ぐことを許された。
このとき、教来石景政(きょうらいし かげまさ)から馬場信房(ばば のぶふさ)と改めた。
そして、50騎持の侍大将(さむらいだいしょう)となる。
永禄(えいろく)5年(1562年)には、前年に隠退した原虎胤(はら とらたね)にあやかって、美濃守(みののかみ)の名乗りを許される。
そして、馬場美濃守信春(ばば みののかみ のぶはる)と改名する。
永禄(えいろく)4年(1561年)の川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)では、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任される。
永禄12年(1569年)の三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)では、武田軍の先鋒として北条軍と戦う。
元亀(げんき)3年(1572年)の武田信玄による西上作戦にも参加。
信玄から一隊の指揮を任されて、只来城を攻略。
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)にも参加。
徳川軍を浜松城下まで追い詰めるという武功を挙げる。
天正(てんしょう)3年(1575年)5月の長篠の戦い(ながしののたたかい)では、武田軍右翼の中核に配される。
数で劣る味方の攻勢は長続きせず、次第に崩れだした武田軍は、有能な人材を次々と失い、戦線は崩壊。
大敗を喫した武田勝頼(たけだ かつより)が退却するのを見届けると、殿軍(しんがり)を務めていた信春は反転。
追撃してくる織田軍と戦い、信春は戦死。
享年61歳。
「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だったとのことです 「信長公記」。
馬場美濃守の最期 歌川豊宣(うたがわ とよのぶ)作画
武田3代に仕えた40数年の間、70回をも越える戦闘に参加。
長篠の戦い(ながしののたたかい)まで、かすり傷一つ負わなかったといわれています。
このため、現代において「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されています。
江戸時代後期に編纂された「甲斐国志(かいこくし)」では、「智勇常に諸将に冠(かん)たり」と記されています。
信春は、一国の太守(たいしゅ)になれる器量人であったとのことです。