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大谷吉継 (おおたに よしつぐ)




豊臣秀吉の家臣。
越前敦賀城主。

通称は紀之介。大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。
官途は刑部少輔。

吉継はのちに癩病(ハンセン病と考えられている。梅毒等の異説有り)を患い、崩れた顔を白い布で覆っていたとされる。
江戸中期頃までの逸話集にはこの描写は存在しない。

眼を病んでいたのは確かなようである。





太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆 (落合芳幾 作画)






1572年頃、大谷吉継は、織田信長の家臣である秀吉の小姓となった。
脇坂安治や一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に、秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬(のちの大谷吉継)の名前がある。

天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久が上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉は尼子軍を救援するために出陣。
このときに吉継も従軍している。

その後の三木城攻めには馬廻として従軍。

10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として名を連ねている。
このときの禄は150石とも250石であったともいうが定かでない。

天正10年(1582年)4月27日、秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めた。
このときも吉継は秀吉の馬廻りとして従軍している。

その2ヵ月後の6月2日に織田信長が本能寺の変で横死。
秀吉は6月13日に信長を殺した明智光秀を討ち、6月27日の清洲会議で織田氏の主導権を獲得して台頭してゆく。





秀吉と織田家重臣である柴田勝家の対立は決定的となり、吉継はこの時期の秀吉の美濃国侵攻にも馬廻衆として従軍。
そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こった。

この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させることに成功。
合戦においても先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される手柄を立てた。

天正13年(1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍する。
最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が「根来寺焼討太田責細記」に記されている。

同年7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任した。吉継は従五位下刑部少輔に叙任される。
これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。
この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更したといわれている。

天正14年(1586年)の九州征伐では、兵站奉行である石田三成の下、功績を立てた。
同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当。

毛利輝元の著した『輝元上洛日記』に記載されている内容から、吉継はこの時点で奉行格に列していたことが分かる。

天正17年(1589年)に越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となる。
吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城(現在の敦賀市結城町、三島町)を改修したと伝わっている。
笙ノ川・児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い、町割を川西・川中・川東の三町に改めるなど政治的手腕を発揮する。

天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍。

続いて奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当した。
南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、2万6,944石を加増され、このころにいわゆる「敦賀5万石」を領することとなる。

文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。

同年6月には秀吉の命令で、奉行衆の一人として長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に渡海。
特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取りまとめた。

明との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って石田・増田と共に一時帰国する。
文禄2年(1593年)5月23日に名護屋城で秀吉と明使との面会を果たした。

文禄3年(1594年)には草津に湯治に赴いており、直江兼続に宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状を送っている。
このころから、眼を病んでいたようである。

慶長2年(1597年)9月24日、秀吉は徳川家康・富田知信・織田有楽斎らを伴い、伏見の大谷邸に訪問した。
吉継は豪勢な饗宴で出迎えた。

慶長3年(1598年)6月16日の豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列し、秀吉から菓子を賜った。
慶長4年(1599年)には女能を見物。病状の好転がうかがえる。





関ヶ原の戦い

慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。
慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。

その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱の際は、家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している。
また宇喜多家中の紛争の調停をしている。

慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。
家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、3,000の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立つ。
途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。

吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとした。
石田三成のように最初から徳川家康を敵視しておらず、むしろ親しかったといわれています。

しかし、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。

吉継は、家康と三成の石高・兵力・物量の差から、軍事経験の差、器量の差などを評して到底家康に勝てるわけがないと諌めます。
3度にわたって吉継は「無謀であり、三成に勝機なし」と説得します。

しかし、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与したといわれている。




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余談

石田三成との間には深い友情が存在したとされています。
友情意識に疎い戦国時代においては両者の親密な関係は美事と思われ、衆道関係であったとする記録も存在している。
秀吉は三成と吉継を「計数の才」に長けた奉行として重用しており、一緒に行動する機会が多かったことから友情を培ったのではないかといわれている。

天正15年(1587年)大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。
この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであった。
しかし、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み、気軽に話しかけてきた。
その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされている。

関ヶ原の挙兵の直前、三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。
ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てお主は影に徹せよ」と諫言したといわれている。

本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに言い合える仲であったことがわかる。
他にも「(三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」と忠告している。





関ケ原の戦いにおいて、大谷吉継は一族を挙げて西軍につきます。
大坂にいた真田昌幸の正室を預かるなど、西軍の一員としての行動を開始する。

西軍首脳の1人となった吉継は敦賀城へ一旦帰還。

東軍の前田利長を牽制するため越前国・加賀国における諸大名の調略を行った。
その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功。

さらに吉継は偽情報を流して前田利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い)
実際に前田軍と戦ったのは吉継配下の丹羽長重であるが、利長は吉継によって流された偽情報に動揺。
前田軍は加賀に撤退する際、丹羽軍に襲われたといわれている。

9月、吉継は三成の要請を受けて、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出する。
そして9月15日(10月21日)、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。

この時、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣。

吉継は病の影響で後方にあって軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦。

正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り、大谷隊を攻撃。
かねてから小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃します。
更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力して、小早川秀秋隊と戦います。

兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し、2、3回と繰り返し山へ追い返したという。
その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。

しかし、吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転。
大谷隊に横槍を仕掛けた。

これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受けてしまいます。
防御の限界を超えて吉継軍は壊滅。
吉継は自害した。
享年42歳。

吉継の自害は、高台院の甥である秀秋に討たれることで、高台院への恩義に報いようとした結果の討死にではないかといわれている。

自害した吉継の首は側近である湯浅隆貞の手により関ヶ原に埋められました。「常山紀談」
その後、東軍側に発見されることはありませんでした。

異説では切腹した吉継の首を家臣である三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧である祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。
吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、隆貞は藤堂隊に駆け行って討ち死にした。

辞世は「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」。
戦闘中に訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。

墓所は、居城のあった福井県敦賀町永賞寺に九輪の石塔、岐阜県関ヶ原町にも湯浅隆貞の墓と隣接して石塔が設けられ、少なくとも2ヵ所に供養塔があります。
また前述のように祐玄が首を持ちかえったとされる伝承に基づく首塚が滋賀県米原市下多良に残っている。

現地には首塚も建てられている。



吉継の敗北により、戦場の趨勢を一変させるほどの影響を与えます。
西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。

西軍の諸将の多くは、その場にとどまることなく戦場を離脱します。
吉継の自害は、珍しい行動といわれています。





大谷吉継の人物像

吉継は、寺社への寄進も積極的に行っています。
秀吉の命を受けて常宮神社を再興したり、氣比神宮に朝鮮から持ち帰った戦利品の鐘を奉納している。
また、八幡神社に本殿の欄間飾りや鳥居、灯篭などを寄進している。

「蓋し、吉隆、平日家臣に対して慈心深く、義をもつて之を奨励せし故、皆命を致して、其の恩に報ぜりと云う」
「北国を経略し、士卒を訓練すること臂の指を使うがごとし」

吉継は家臣から慕われており、家中の統制がとれていたことをうかがわせます。