明智秀満 (あけち ひでみつ)
織田家家臣である明智光秀の重臣。
明智光春や満春の名でも知られています。
左馬助(左馬之助)の通称でも有名。
明智光秀配下として、その活躍が認められ、天正6年(1578年)頃に光秀の娘を妻に迎えています。
その後に明智姓を名乗るようになりました。
太平記英勇伝四十九 明智左馬助光春(落合芳幾 作画)
天正10年(1582年)、明智光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃。
羽柴秀吉との山崎の戦いでは、光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦います。
しかし、衆寡敵せず敗北して、坂本城に入城。
秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考えます。
それらの名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろしました。
「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と秀満は叫んだ。
しばらくの後、直政と秀政が現れて「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返すと、
秀満「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。
お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と秀満は返事し、堀秀政と直政らも納得したと伝わっています(川角太閤記)。
後世において、天下の名物を残した秀満の見識は賞賛されています。
秀満は、最後の夜に光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子や自らの正室を刺し殺しあるいは介錯し、自ら城に火を放って自害したとされています。
享年は47歳。
坂本城を敵に囲まれて滅亡が迫る中でも逸話がある。
坂本城に一番乗りしようとした武士に入江長兵衛という者がいました。
秀満は長兵衛と知己があり「入江殿とお見受けする。この城も我が命も今日限り。末期の一言として貴殿に聞いてもらいたい」と声をかけた。
長兵衛は「何事であろう」と尋ねると、
秀満「今、貴殿を鉄砲で撃つのは容易いが、勇士の志に免じてそれはやめよう。我は若年の時より、戦場に臨むごとに攻めれば一番乗り、退却の時は殿を心とし、武名を揚げることを励みとしてきた。つまるところ、我が身を犠牲にして、子孫の後々の栄を思っての事だった。
その結果はどうであろう。天命窮まったのが今日の我である。生涯、数知れぬ危機を潜り抜け、困難に耐えて、結局はかくの如くである」と述べた。
「入江殿も我が身を見るがよい。貴殿もまた我の如くになるであろう。武士を辞め、安穏とした一生を送られよ」と述べた(武家事紀)。
今日の我が身は明日の貴殿の身だと、一番乗りの功名を挙げても武士とは空しいものと、秀満は言いたかったのである。
そして秀満は話を聞いてくれた選別として黄金300両の入った革袋を投げ与えた。
秀満の死後、長兵衛は武士を辞めてもらった黄金で商人となって財を成したと伝わっています。